「八幡宮由緒」に「・・・下って寛治六年の夏、越後に大津波の襲来があり・・・」との記載があり、明治10年12月に作成された「越後国蒲原郡宮内村誌」にも「寛治六年甲申ノ海嘯に一変・・・」とあります。
また、紫雲寺新田由来記には「七十三代堀川院、寛治六年戊辰、大津波大地震、蒲原、岩船陸地となる」(大木金平、『郷土史概論』、1921年発行による)
大木はこの記述とこの地方で発見される埋没樹を津波と関連づけて論じています。胎内川や加治川の切り落とし(分水)工事の際に発見された埋没樹の多くが根つきで大量に発見され、同方向(根を東に)に向いているのは津波による可能性がある、というものです。
このことから私は寛治六年に大地震があり、その影響で大津波が来たのだと思っていたのですが、ただ海抜も高く海から離れている宮内まで津波が来るものだろうかと疑問に思っていたところもありました。
最近の研究から地震津波ではなく大型台風による高波・高潮である可能性が極めて高いと結論づけられているそうです。大雨による水害や土砂災害(山津波)だったかもしれません。
地震によるものではなかったとしても地形が一変するような大災害があったことは事実のようなので八幡宮由緒も宮内村誌もいずれも正しいと言えそうです。
【参考:google AIより】
寛治6年(1092年)の越後国(現在の新潟県)の災害は、従来「巨大地震による津波」とされてきましたが、最新の研究では台風などの巨大な気象災害(大風による高波・高潮)であった可能性が高いと指摘されています。
歴史的な記録や最新の研究による主なポイントは以下の通りです。
従来の解釈(津波説):1092年9月13日(旧暦:寛治6年8月3日)に発生し、越後沿岸の寺泊から角田、古潟、砂山、飛山、榎嶋などの広い範囲で大波の被害が出たと伝えられています。沿岸の地形が大きく変わるほどの壊滅的な被害をもたらした「大津波」として語り継がれてきました。
最新の学説(高波・高潮説):東京大学地震研究所などの最新の研究(2023年発表)によると、当時の記録を詳細に調査した結果、地震の揺れを示す記述がないこと、また伊勢神宮など全国的な被害を及ぼした記録と一致することから、地震津波ではなく大型台風による高波・高潮である可能性が極めて高いと結論づけられています。
日本海側の歴史災害として知られる事象ですが、現代の自然科学的な検証によって災害の発生メカニズムが大きく見直されている興味深い事例です。
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